noa no atamannaka

フェミニストの読書記録、映画記録、考えていること

今は見守りたい

(2022.11.3の記事。noteから転載)今、よくない方の意味で話題になっている人のことを、私は小学5年生の時から好きだ。
好きだった、と過去形にはとても出来ないが、今も躊躇いなく好きだというのは少し違うかもしれない。

彼女の作品は私の、大したことないけど私なりに辛かった日常に寄り添ってくれるものだったり、少し元気にしてくれたりするものだった。

一時期はアルバムを出す時に受けたインタビューが載っている雑誌を全て買ったほどだった。
それくらい、彼女の声を聞き逃したくなかった。

一番熱を上げていた時から少したち、ちょっと今の方向性はあまりハマらないと思った時期もあったが、ふとした時に出された新曲がものすごくよくてまた惚れ直したりした。

彼女は、(これは私が勝手に感じているだけなのかもだが)
デビューしてからずっと、多くの女性をエンパワメントしてきたと思う。

彼女がデビューした頃はまだ、今よりももっと、女性が自分の性的な欲望を語ることが憚られた時代だったと思う。
私は彼女がデビューした頃、ちょうどオンタイムで追っていた、世代だった訳ではないのでこれは推測も入っているが。
そんな中、アホっぽくなく(語彙力・・・)、「若くて可愛い女の子がエッチなこと歌ってる」みたいな低俗なレベルではなく、もはや芸術の域まで昇華したのが彼女だったのではないか。

今、生きづらいし息苦しいけど少しだけ息継ぎができる時間や空間を感じることができるのは彼女のおかげもあると思っている。

性的な欲望を女性が口にするというのはつまり、自我の確立でありフェミニズムとも通ずるのではないかと勝手に思っている。

そんなこと言うもんじゃないと言われても思っていることを言うこと。主張すること。歌うこと。書くこと。

私たちは飼われているのではなく、当たり前に一人の人間なのだということ。
女性だからといつも何かとナチュラルに見下されるが、曲の中でくらいお前を支配したり復讐したり馬鹿にしてみたりしたりしていい気がしたし、それが出来た気がした。

再び好きになってからの曲をあげると、
母になり自分という存在が、自分の人生の主人公ではなくなってしまったと感じた時に、気休めでも安らぎをくれた「二時間だけのバカンス」。
結局こういう林檎さんが一番好き、「公然の秘密」。
「辛い仕事にご褒美のない時も、惚れた人が選んでくれない時も」という歌詞で時々泣きそうになる、「目抜き通り」。
寒くなってくると聴きたくなる、「野生の同盟」。
初めてデモに参加する時、行きの電車の中でずっと繰り返し聴いていた
「緑酒」。(私はこの曲、とても政治的だと思ったしもの政権批判すらしてくれていると勝手に思った。)

***

例の騒動が始まった時、何も言わない彼女に確かに残念な、寂しい気持ちを抱いた。


正直、
今回の件、別にヘルプマークが必要な人のことをひどく馬鹿にしたとかいじめたとかじゃないじゃん、と初めは思っていた。
(某フェスで明らかに他の人種を馬鹿にしたような発言をした某グループとかほど罪は重くないんじゃないか、とか思ったりもした)

でも、そう思うことこそが、私がマジョリティ側にいる、現在ヘルプマークが必要ない側にいる者としての、マイノリティへの暴力なのではないかと思った。

そう思ったのにはちょっと理由がある。
インスタで最近いいなと思った人(以下Aさん)が、今回の件で彼女のことをまあまあ強い言葉で批判していた。
正直、今回の騒動だけでそこまでは私は思わなかったものの、
普段から「踏まれる側にいる」ことが多いのかもしれないAさんは、今まで彼女がとってきた行動や発言、作った作品やグッズからそういうものを感じたんじゃないかと察した。
それはAさんが敏感すぎるのではなく、私がマジョリティ側にいるからこその鈍感さでもって今まで気づかなかっただけなのではないか。


不倫疑惑については説明も弁解も一切いらないし、
コロナが流行り始めたばかりの頃ライヴを行ったこともものすごく勇気があることだと思ったし(だってライヴをしないとそのスタッフたちは収入がなくなってしまう、とかまで考えてたんじゃなかろうか)てか、当選したからしっかり見届けたし。そして爆泣きしたし。

でも、今回の件はそれらとは全くベクトルが違うと思った。

なので何か言葉を発して欲しいと思った。

言葉を発さない彼女に少し悶々としていたある日、Twitter
「このままだんまりを決め込まれて『どうせファンはついてきてくれるだろう』と言うような対応を取られると、他の誰でもない彼女のファンでいる意味がない。寂しい」というようなツイートを目にして、ほんとそれな・・・と、見ないようにしていた自分の気持ちに気づいてしまった。

そして、ちょうどファンクラブの更新の時期だったのだが、更新するのはやめることにした。
このままお金を払い続けてしまうと、彼女の行動や決断を認めたことになってしまうと思ったから・・・。

これについては絵を描いて、気持ちを供養させた。

画像
お耳の恋人をたくさんありがとう

***

今日、グッズ制作側が改めて謝罪文のようなものを出したことをきっかけにまた話題になっていた。

しかし、今回Twitterで目にしてしまう批判は、前のもののそれとは少し質が違うように感じた。

なんというか、いじめっぽい。

正義を盾に、一人の人を大人数で責めることをよしとしているような空気をTwitterから感じた。
気分が落ち込むので、あまりみないように考えないようにしていてもそれ関連のツイートが目に入ってしまう。
普段彼女について全然触れない、音楽とは別分野の人も彼女について批判的な意見を書いている。

なんだか怖い、と思った。

初めは、彼女に何か言ってほしいと思ったし「どうせファンはついてきてくれる」だなんて舐めてほしくないと思ったけど、
今の批判の具合はなんだか違うフェーズに入ったように感じた。

そしてさんざん批判されてから今何かを言ったとしても、またきっと何か彼女は言われることになるだろう。
多くの人の流れという、膨れ上がるような、制御しきれないものの怖さを思った。
きっと彼女は10代の頃からこう言ったものを感じていたんじゃないだろうか。
私は彼女じゃないからわからないけど、若くして世の中に晒され続けた人の、こういった時のメンタルヘルスが心配だ。

ていうか、音楽でも漫画でもそうだが、
作品を作って世に出す機関(会社とか)がもっと、作品の良し悪しだけじゃなくて人権などについてアーティストに学ばせる機会を設けてほしい・・・。

それは金の問題だけじゃなくて、世の中を良くするとか文化とか社会を少しでも誰もが生きやすいものにするということにつながると思う・・・。

何が言いたいかというと、アーティストから搾取?するだけしておきながら問題が起こったらポイってのはあまりにも大人のやることとしてひどいじゃないか。
(ちょっと話が飛躍しているようにも思われるが、つまり若くしてデビューした人はそういうことを学ぶ機会もあまりないまま年を重ねるしかなかったんじゃないか。忙殺されそうな日常の中でなんとか人権の勉強のために個人的に時間をとり続ける、いわば本人の努力にのみ任せきりだったのではないか。それはちょっとあまりにもじゃないか。アーティストだけじゃなくレコード会社も一緒に勉強して一緒にアップデートして世の中にいい音楽を作っていきましょうという豊かさが欲しい。)

だから、相変わらず声明などを出さない彼女を、
今、重ねて批判するのはやめようと思った。
それは、今度は彼女に対する暴力だと思った。
どうにも彼女一人の問題だと思えない。特に今は。

もし自分が万アカになったりしたら(いやならなくてもだが)
こういう、流れが大きくなってしまっている時には発言自体を控えようと思った。
なんだか、同じ言葉を放ったとしても、どういう状況かによって、その言葉の強度が全く変わってしまうように感じた。今回の件で。

ちょっとこういうのを見るのも辛い。
今はこのことについて考えるのはお休みしたい。
彼女に至っては、今は批判よりも見守りたい。
どうかこの件でこの世からいなくなったりしないでほしい・・・。

私がマジョリティ側にいることの暴力性、誰かを踏む可能性を大いに持っていることについては学び続けるしかないと思った。
大ブレイクするらしい45歳までに。

もし彼女が、今回のことについて声明は出さないけど曲は出したい、と思うことがあれば、それが完成するまでじっと待ちたいし、静かに見守りたい。