noa no atamannaka

フェミニストの読書記録、映画記録、考えていること

大学行ってるのがそんなに偉いんか

大学について最近少し思うことがあったので忘れないようにメモ。

 

先日、「ブルーピリオド」という漫画の12巻を読んだ。

(これは高校で初めて美術に目覚めて藝大合格を目指し、見事現役合格した主人公が大学生活での制作に行き詰まっているあたりです。)

 

この巻に、「大学を出ているか否か」に大変重きをおいている先生が、結構メインで出てくる。(表紙にもなってるしね)

 

主人公がいいなと思った作品の作者に「どこの大学出てるんですか?」と聞く先生。

別に、大学どこ出てるんですかって聞いてるだけじゃんといえばそうかもしれないが、この質問、なんだか棘がある。

そして、大学は出ていないと答える作者に「そうだと思いました」と返す先生。

 

別に嫌味じゃないのかもしれない。良い意味なのかもしれない。

しかしこの先生の言い方には嫌味を感じる。

主人公もそれを大いに感じ、この先生に対して結構引く。

 

 

少し話が飛びます。

結構有名なイラストレーターさんで、「私は美大に出ていなくても◯年でここまでイラストレーターとしてやっていけるようになりました!」という人のnoteの記事を買った。

正直、特に初期の仕事の絵を見ると、

え、このクオリティの絵で3000円とか貰えちゃうのか・・・などと驚愕した。

 

私ならそのクオリティで3000円払って!って言えないな・・・と思うが、そんなんだから少しも絵で食べていけてないんだよなとも思ったり。

「これが3000円です」と言われて、「3000円出してもほしい!」と思う人が一人でもいればそれは仕事として一つ成り立つのだから。

そしてそれをいくつもこなせば、1ヶ月生活できるほどの収入になったりもするのだから。

この人はこの人ですごい。

すごいというふんわりした言葉で形容するのはよくないな。

「生き抜く力がある」とでもいうべき?

堂々とする力?

 

 

気になったのは、「美大を出ていなくても」というワードだった。

学歴コンプレックスだろうか。

それとも、ただ「美大を出ていない」という事実を言っているだけなのに

僻みのように感じるのは私の側の問題なのではとも思う。

 

でも、先ほど話した「ブルーピリオド」の先生のような考え方の人が結構多い世の中、

そりゃあ「美大なんかでなくてもここまで立派にやっていけますよ」と言いたくなるのも無理はない、と思った。

 

 

大学はお金がかかる。

学費だけでもかなりかかるが、家を出て通うところとなると、家賃やその他の生活費もかかる。

しかも、美大なら普通の大学よりもさらに学費が高い。

そして、制作のためにいちいちお金がかかる。

ランニングコストが高い。

なのに(?)なぜかMacを持っている人は多い。謎。

(私は結局大学時代、個人でMacを持てず学校のPCをずっと利用していた)

美大に行ったら「みんなこの大学かよえてるだけでもすごいのに、金持ちは金持ちなんだなあ」と思った。

 

 

何が言いたいのかうまくまとめられそうにない。

でも、

 

・貧困を極めているこの国で、大学に通えるということが既に特権。それを、何かをすることの資格・条件にしてしまうとかなり不公平だ

 

・大学を卒業させてもらえた私は今、結局、まだ絵やデザインの仕事を全然できていない。検品のバイトをしている。大学時代学んだことを活かせてるとは言えない。

しかし、私の才能が花開くのは晩年だというのもあるが、

大学で学んだことがこの先おばあちゃんになるまでずっと血肉になって活きるだろう、おばあちゃんになるまで生活できるだろうという「視点の芽」をたくさん出してくれたなという実感はある。

(→大学で学んだことは即戦力にはならないが人生を豊かにしてくれる一助はしている)

 

なんてことを思った。

 

↑これを書いていて、やはり大学にいけることが特権なのだという悲しい気持ちを禁じ得ない。

奨学金があるじゃん!奨学金を使わない人は怠惰!なんていう人ははっきり言って無知で大馬鹿のゲス野郎だ。

 

奨学金を返すために体を売らざるを得なかったり、バイトばかりする羽目になったという話なんていくらでも聞く。

 

もっと、学びたい人に広く門戸が開かれていてほしい。

私は45−75歳の間仕事で大ブレイクするらしいので、そのお金でなんかうまい仕組みを作れないだろうか。

 

スラムダンク奨学金も見かけたことがあるけれど、あれも「選ばれし数名」だけのものだったと思う(財源には限りがあるから当たり前ではあるよな・・・)

 

お金を単にあげる、援助するというよりも、「仕組み」が必要な気がする。