noa no atamannaka

フェミニストの読書記録、映画記録、考えていること

今更恥ずかしいのだけど政治をちゃんと学び直したい

(2019年11月20日にnoteにて公開した記事)

カメラや写真のことを書いたnoteの下書きをいくつか同時に書き進めているのだけれど、

やはりこの悩みがここ数日1番頭をもたげていて、これを書かずして写真のことなど呑気に書いている場合ではないという気持ちになっている。

今まで無関心でいたから、こうしていざ、ほとんど覆すことが難しいのではというところまできて改めて、逃げようのない、やばい、と落ち込んでいる。

いつからこんな国になっちゃったの?なんて言えない、自分が今まで無関心でいたからだ…というズキズキとした罪悪感に苛まれている。

政権が暴走しないように抑止力をお互い持つ三角形の機関があったはずなのに(これでお分かりでしょうわたしの政治知能レベルの低さを)全然機能していないし…これで憲法改正(いや改悪)までいったらほんとこの国は死んでしまう…

数学や算数が苦手なこと、それはいい。お金の計算が多少できれば生活はやっていける。もっと得意な人は他にいるから、その人に任せればいい。でも、政治のことはちゃんと分かるまで学ぶべきだったし、今まで何度も「ちゃんと学ばなければ」と思った時に、そのたびに逃げずにやるべきだった。誰かに任せて知らんぷり、していいものではなかった。自分や大事な子どもの命を、他人にポイってパスして「後はいい感じに宜しく!」って文字通り丸投げしていたんだと痛感せざるを得ない。

メディアリテラシーを持たない小さな子どもだったわたしに、親は、「そんなのないよ〜大丈夫大丈夫」と「お化けなんかないさ」のノリで言ってきた。それに甘んじてしまった。

でも、そんなのない、わけではない。だってそれは空想のお化けではなく、実在する人間が起こしていることだから…

その、「なんとなく大丈夫」に流され、自分の怠惰さに負け、「大それた悲劇など起こるわけがない」という、普段のネガティブさはどこ行った?ってな希望的観測で生きてきたから、自分は未だに、あの時の「メディアリテラシーも知識もない子ども」のままだ。とても恥ずかしくて何日も、このことを書けないでいたけど、もう一刻を争う事態だと思ったので学ぶためにも意思を書いておかなければと思った。

選挙には行ったし何かと署名もしてるけどどうにもならないのではという気持ちになっている、学んで変わるかわらかないけれど学ばなければ…とりあえず無知の愚かさを自覚したなら何かしないと、という気持ち。

自分の子どもが、これなぁに?どういうこと?と聞いてきたら、はぐらかさずちゃんと答えられるように今からちゃんと学びたい。

親があの政権を推してるみたいだとか大事な人が政治に興味ないとか、今は関係ない、わたしがどうしたいかだから、

今度こそ他人のせいにせず自分のために子どものために1ミリずつでも学ばなければ