エブリシング、エブリウェア、オールアットワンス
※ネタバレあり
鬱症状がひどくて昼間のバイトを休んだ。
ネットの鬱チェッカーで調べてみると、「6点以上ある方はうつの疑いがあります」というテストで11点だった。
そんな時にこの映画をみた。
バイトを休ませてくださいと連絡した時の、向こうの一瞬黙った時間を永遠に反芻してしまいそうだったのが嫌で、何か別のものを見ようと思った。
この発想はとれたてクラブさんという漫画描きさんがアケルマン・ストーリーズという本に寄稿した文章を思い出してのことだった。
とにかく、やっとみたかった「エブエブ」をみた。
劇場公開されている時はインスタでみんなが「みたー」とストーリーにあげているのを羨ましく思った。
私も映画を映画館で観たいよ。
これは、同性愛者の子が親び無理解でいかに突き放されるか、自殺願望に苛まれるかという話だと個人的には受け取った。
それはあらゆる世界を破壊し、ついには自身をも消してしまいたいと思うほどの絶望なんだと。
主人公のエヴリンは「ここではないどこかの自分の存在」を知り、そこでは自分がハリウッドスターとして輝いていることを知りその世界にいたいと思う瞬間が何度かある。
そこでは冴えない夫もなんだかいい男だった。
しかしそこはその男と生涯を共にしなかった世界線で、娘も生まれていない。
最終的に、その世界ではなく今、この世界で娘と共にいたいと本人に告げるところは彼女の中で大きな変化だったと思う。
でもそのあと娘がすんなり受け入れて感動エンド、となかなかならないのが良かった。
「だから?それ以外の問題は帳消し?」みたいなセリフが良かった。
今まで恋人の存在をちゃんと受け入れてもらえなかったこと、父親に説明してもらえなかったこと、「太り過ぎ」と体型を否定されること、こんな一言で許せるわけがない。
一言ですぐに許せるわけはない・・・が、これをきっかけに雪解けはしていくような感じも救いがあった。
そして興味深いのが、現在いる世界線からかなり遠い世界だと、エヴリン自身も同性愛者だったということ。その世界では指がソーセージみたいで全くうまく動かせない。全く自分とは違うと思っていた人たちも、別の世界では自分自身だったりする。
冴えないと思っていた夫は「やさしい戦士」だった。自分とは違う戦い方をしていた。それによって、エヴリンができなかったことを成し遂げたりした。
最後には夫の戦い方を参考にすることで娘を死の淵から救うことができた。
相変わらず税金の申告はクソだし、ハリウッドスターってわけじゃないけど、それでもこの世界で生きると自ら「選んだ」エヴリンはなんか良かった。
読書「死ぬまで生きる日記」
割と久々に本格的な鬱っぽい感じになってしまった。
原因はいくつかある。
ガザでの虐殺について、色々調べてはいるがお金や時間が足りないこと。
それについてNOの声を上げている著名人や知人が少ないこと。
バイト先の子が妙に攻撃的なこと。
かなり年下なので言いまかすのもかわいそうだということ。
バイト先のオーナーに少し不信感を抱いていること。
忙しいあまり、出費が激しくなっていること。(私の悪癖の一つ。落ち着いたと思っていたのに。)
子供のおむつがまだ取れないこと。
何回も何回もうんこの処理をさせられるのが嫌なこと。
いいかげん自分でできるようになってほしいこと。
こんなことを元夫はせずに済んでいるとということ。
子供に使うお金がちょっと多すぎること、
それを周りから異常だと思われているであろうということ。
来月の支払いが恐ろしいこと。
払える見通しがあまりないこと。
最近ものわすれがひどく、子供の荷物を忘れてしまうこと。
それによって園に迷惑をかけていること。
節約を心がけてもたいして抑えられている実感がないこと。
体調が常に少し、もしくは結構悪いこと。
頭が痛いこと。
いつもの薬が効かなくなってきたのでサプリで体質改善をすることに決めたが、そのサプリが高いこと。
あらゆることから解放されたく、死ぬことを考えてしまうこと。
住んでいるところが割と高層階なので、落ちたらきっとちゃんと死ねるだろうと四六時中考えてしまうこと。
最近ずっと気になって少しずつアプリで読み進めていた漫画の登場人物たちがやっと幸せそうに慣れたのは救いだった。
でもそうやってデジタルデバイス、特にスマホに触れているのが良くないのかもしれないと思い、紙の本を読むことにした。
そこで選んだのが、かなり前に買いはしたけど全然読めていなかった、
土門蘭さんの「死ぬまで生きる日記」だ。
実はこの本を買ったばかりの頃、普段はそんなことをしないのだが、なぜか一番最初に最後の方を読んだ。
この人が最終的に「救われる」のか知りたかったのかもしれない。
「大丈夫になれるものだ」というラストを知った上で、過程を安心してみたいと思ったのか、それとも「結局大丈夫になんかなれないけどそれでもいい」というものだと確かめたかったのか、今となってはわからない。
この本は土門さんが人生で初めてオンラインカウンセリングを予約するところから始まる。
初めにカウンセラーのことをなかなか信頼できていないと自覚するところから始まるのとか、ものすごく共感した。
カウンセラーだけど、私に一生物の傷を植え付ける人かもしれない、と思うのももっともだ。
本はまだ読み始めたばかりなので感想というよりは読み始めたきっかけの記録になってしまった。
読み終えたらまた感想やその時の自分の状況を書くかもしれない。
とにかく私は、この本を読んで、自分もオンラインカウンセリングをしてもらおうと思った。
いや、正直にいうと児童相談所に連絡したあとだった。
カウンセリングの値段に少し圧倒されてしまった。
告白すると、私は前から児童相談所に自ら世話になっている。
定期的に話を聞いてもらったりしている。
だが今日電話で話を聞いてもらったとき、「向こうも忙しそうだし、あまり親身になってもらえている気がしない。でもしょうがない、この人たちも精神の専門家ってわけじゃないから」と。無料でいつでも話を聞きますよと言ってくれるのは大変ありがたいので、専門家でないことにまで文句は言えない。
本などにはあっさり使ってしまう少しまとまったお金を惜しむことで、
気分の波で、またこの間の夜みたいに、ばけものみたいになってしまうかもしれない。なんとか予防策を打っておきたい。
しかし、カウンセリングは初回5500円、次回から9000円近く。
私は本当に、生きているだけでなんてお金のかかる人間なんだろう。
予約は早朝にしておいた。朝早くに起きるのは慣れているが、忘れないようにしないといけない。
私も土門さんみたいに、「とりあえずその予約した日までは生きよう」と思った。
健康で文化的な最低限度の生活とは
おかしい。
どう考えてもおかしい。
どう考えても、月に30万は収入がないと「健康で文化的な最低限度の暮らし」はできないとほぼ毎月思うのですが、皆さんいかがですか。
そもそも「最低限度」の基準が何をもって、なのかよくわからないが、あまりにも低くないか、その基準。
健康で文化的な・・・といえば、時間に駆り立てられることもなくゆっくり過ごす時間が1日の中にいくつもあるとか(昼寝ができるとか朝ヨガできるとか休みたいと思った時に休めるとか)、気になる本を気軽に本屋さんで(Amazonではなく!!!)買ったりとか、本屋にわざわざ赴く時間と心の余裕があることとか、推し作家の作品をお迎えするとか、映画館に映画を見に行くことができるとか、展示に行ってゆっくり作品を眺める習慣があるとかってことだと思うのですがどうでしょうか。
今私たちは毎日食べ物や生活費のためにあくせく働かされている。
これは断じて「健康で文化的な」生活ではない。
少し収入が上がったと思ったら児童扶養手当の額をドカンと削られる。
収入は上げたいが、それには結局多分10万くらいのでかい変化がないとちゃんと「増えた」感じにならない。
なぜなら児童扶養手当やら何やら、「あ、収入上がったんなら減らしますね」という気合がものすごいからだ。こういう時だけ、市役所は仕事が早い。
その逆はものすごくいつも遅いのに。
ものすごくお金を稼げるようになって、買う本や置き場所、支払いにいちいち頭を悩ませなくていいようになりたいと思う一方、資本主義から降りたいという気持ちが同じくらいある。
この二つを両立できる道をなんとか探したい。
単にお金を稼ぎたいだけなら、アフィリエイトとか、やれることはたくさんあるだろう。でも、「人を傷つけたくない」「魂は売りたくない」と思うと一気にお金を稼ぐのが難しくなる。
創作漫画をよくあるライブドアブログに載せたらアフィリエイト収入が入るのかもしれない。でもそれをしている人のサイトは毎回陵辱系・同意をとっていない系のエロ広告が出てきて非常に不快だ。私の漫画を先読みしにきてくれた人にそんな嫌な思いはさせたくない。
noteはどうか。運営に問題が大有りなので、数年前に辞めた。
そこで有料記事や投げ銭を貰えば少しは稼げるのかもしれないが、被害をリアルタイムで目の当たりにし、そのことに全く反省していない幡野とかいう写真家を擁護する運営にこれ以上稼がせたくはない。すっきりとしたデザインで、利用しやすかったのに本当に残念だ。連日投稿すると褒めてくれるシステムもやる気に繋がっていた。ああ、本当に残念だ。
子供のエッセイまんがを書けば、ある程度人気になれるのは確実だと思う。仕事ももらえるかもしれない。でも、子供のバウンダリーをおかしていないか。子供の身に起こった出来事を、まだ同意の観念もないような年齢から、親である私が勝手に世間に子供のことを暴露しまくってしまって、果たして本当に良いのだろうか。
そして、これに一度味をしめたら二度ともとに戻れなくなると思う。却下。
一度ははまったことがある人も多いかもしれない、マルチ(っぽい)商法。
金銭面や労働環境に不安を抱えていた時に出会い、あと一歩で仕事として始める、というところまで行ってしまった。でもやっぱり。「生活費にも困っているような人たちに毎月2万以上美容に払ってなんて言えない」と思い、断念。
貧すれば鈍するね。
私はいつも心の状態や世の中の情勢が良くなくなると、そのことについて調べるために大量の本を買ったりしてしまう。収入以上の額を買ったり、また、見かけた支援が必要そうなところにお金を出すので、基本的にいつもほんのり借金している。(少し借りて、すぐ返してみたいな。)どう考えても、手元にあるお金だけでは健康に、文化的に、人間らしく(つまり、今起こっている虐殺に目を逸らさず)生きることができない。
私は借金をしながら、なんとか人間としての尊厳を守ろうとしているのだと思う。
そんなこんなで結局は創作漫画を描くしかないんじゃないかという結論に行きつき、なんと1話目を描くことができた。無料公開なので絵は頑張りすぎない、状況がわかる程度のクオリティで続けるということを自分に許した。(そうじゃないと全く描けないままだったから)
インスタで公開したらなかなか評判が良かったのでここにも載せようかな。
この漫画が単行本になって、印税とか入るようになったら、それは一番幸せなお金持ちのなり方なんじゃないかと思ってる。
ハンチバック
過ぎ去りし7月はdisability pride monthだった。
この言葉に馴染みのない人も多いかもしれない。
障がい、というか何かしらのハンデを持っている人たちのためのプライド月間といったところだろうか。
思えばタイトルにした『ハンチバック』の主人公はミオチュブラー・ミオパチーなのであってdisabilityと言う言葉こそしっくりくるが「障がい」と言うワードはふさわしくないのではないのかもしれない。
慎重に言葉を選ばないと自分の偏見が露呈しそうで非常に緊張するのだけど、あえてこの話題に触れたい。というか触れないわけにはいかない。
理由は、覚えていれば次の回に詳しく書きたいと思う、
手短に言うとやまゆり園事件から7年経ってようやく自分がこの問題について考える余力ができたからだ。
やまゆり園事件は知的障がいの方たちの事件なので、タイトルにした本である身体にハンデがある人の問題とはまた結構問題が違うのだが、まず今回は身体にハンデのある人について自分の中の醜い、未熟なものと向き合いたいと思った。
自分は今、目は悪くても眼鏡で矯正できるレベル、四肢が残っている、聴覚も問題ないという「健常者」の立場にいる。
つまり健常者としての特権に大いに無自覚であったことを、先日芥川賞を受賞した市川沙央(さおう)さんの『ハンチバック』を読んで痛感した。
***
テレビでも紹介されていた箇所をここでも抜粋したい。
私は紙の本を憎んでいた。目が見えること、本が持てること、ページが捲れること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること──5つの健常性を満たすことを要求する読書文化のマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。
***
ハンデを持つ人とのロマンティックな関係を絵描いたドラマはよく見かけるけれども、
残酷なことを言うと、その物語に出てくる人たちは「かわいい」。
ハンデを負っているがルッキズムが蔓延るこの社会においては強者である人が物語に主人公になっていることをどうしても思わずにいられない。
(こんな言葉が出てくるのは何より私がルッキズムに侵されていることを否定できない。)
『ハンチバック』はルッキズムについても深く抉っていると思う。
主人公である釈華(ネーミングセンスが最高)が自身のことを何度も『わたしはせむし(ハンチバック)の怪物だから』と言っている。
釈華は誰も見ていないであろうアカウントで
「生まれ変わったら高級娼婦になりたい」とつぶやく。
また、「中絶がしてみたい」とも書く。炎上しそうだと言う理由で一度はSNSではなくEver noteに保存した文章。
「出産はできなくても、堕胎までは追いつきたかった。」
多分実際にSNSに投稿したら、釈華さんが予想したように炎上しそうだ。
「妊娠したくてもできない人の気持ちに配慮していない」と。
でも今は妊娠したくてもできない人の話ではなく、背骨が極度に湾曲している釈華さんの話をしている。
数が少ない人の声はこんなにもかき消されやすい。
後回しにされやすい。
当事者ではない人たちが勝手に外野からジャッジする。
「〇〇が言っていることの方が尊重されるべき気持ちだ」などと。
***
自分が生まれてから今まで、ハンデを持つ人たちに対して思ってきたことはなんだろうか。昔は周りの大人たちがいう「かわいそう」と言うワードに大いに影響を受けていたと思う。「かわいそう」だから「助けてあげないといけない」と。そして「自分がそうじゃなくてよかった」と。でも、自分がいつまでも「健常者」でいる保証はどこにもない。
私はこの文章を、眉を顰めて「障がい者についてもっと考えてあげなければ」なんて上から目線でもっともらしいことを言っていい人ぶるために書いたんじゃない。
自分の恥部と向きあいたくて書いた。
問題はハンデを持つ人たちではなく、
この世の過半数を占める、ハンデを持たない人たちの傲慢さ(私を含む)にある。
ハンデを持つことが怖いのは、不便だからと言う以上に
「そうなると蔑んだ目で見られる、憐れみの目で見られる」の気持ちが強い。
あなたもそうじゃなかろうか。
もし、ハンデを持つことで単純に「できないことが増えるだけ」であり、「そうなったら当然助けてもらえる社会」なのであれば、「憐れみの目で見るやつの方が人として恥ずかしいやつ」という常識の社会なのであれば、
ハンデを持つことは怖くなくなるんじゃないか。
本の断捨離をすることにした
こんまり氏の片づけメソッドに救われて数年、しかしこんまりメソッドに一つだけ異議あり!だった。
「本棚にあってしばらく読まなかった(読めなかった)本は、また読みます!!!!!」
一回手放してしまうと入手困難なものもあったりする。
本だけはどうしても彼女のメソッドに従えなかった。
しかし毎月買う本をしっかり読めていない、昔買った本ばかりが本棚を占領していることは確かに少し思うところがあった。
その結果私はサマリーポケットを使うことに。
この結果、本棚に収まるちょうどいい量がわかったし、買った本をちゃんと読んでいける、よい変化が生まれた。
しかし、どんどんサマリーポケットに収納するうちに、今度は毎月の支払いがキツくなってしまった。
このまま毎月◯円近いお金を払い続けるのはきつい・・・いや、これはその価値のある本たち・・・・いや、本当に全部が全部そうだろうか・・・?
という葛藤を何度も繰り返し、私はついに本の断捨離をすることに決めた。
しかし、ブックオフは絶対に利用したくなかった。
小中学生の頃好きだったポルノグラフィティの新藤晴一さんが「二束三文で人の作ったもんを売ってそれでハッピーハッピー、じゃねえよ」みたいなことを著書に書かれているのを読んだり、
自分自身がいつかものを書いたり漫画家になりたいという気持ちがあるから、
作った人に利益がいくシステムを壊したくという思いが強かった。
(こういうことを言えるのも特権性があることは自覚している。本当に本当にお金がなくて、ブックオフの100円コーナーだけが楽しみだったと言っている人をどうして責めることが出来ようか。
だからこれはあくまで自分の話である。
でもめちゃお金持ちであろう有名俳優が「漫画を買ってはブックオフに売っている」と聞いた時は真顔になってしまった。余裕あるならよお・・・・おま・・・・)
なので、S N Sでサマリーポケットに預けている本のデータを公開し、
手放したくないものにはばつ印をつけて、
「ほしい人は送料だけ払ってください、本代はいりません」と言って募集をかけた。
私がずっと読むこともできずwordpressに
持っているより、私の好きな人たちが持っている方がいいと思った。
そこそこ受け取り先が見つかって、
ものによっては着払いにできないものもあるので(レターパックとか)
「長期的な出費を抑えるために一時的な出費が嵩む」状態になっているのは気づいていたが、資本主義に抗うというのはこのように、時間と手間と金がかかることなのかもな、と思っているので、粛々とやるつもりだ。
私は漫画ばかり読んでいる
漫画が好きだ。
昔、映画監督を目指していた時は、見ている映画の少なさに引け目を感じたりしていたが、漫画に関しては「かなり研究してますよ」と言えるくらい色々読んでいると思う。し、結構考察している。
基本的に「作者さんにお金を払うのは礼儀!この世に素晴らしい作品を生み出してくださってありがとうございます!!」の気持ちなので、割と軽率に、電子漫画は買ってしまう。(紙の漫画はものすごく場所をとるので、かなり吟味してから買っている)
無料で毎日少しずつ読むことができる系の漫画アプリは大変ありがたいのだが、
広告の動画を繰り返し見ているとどうしても具合が悪くなってしまう。
エロ系じゃない広告だとしても、王様が閉じ込められてパズルで助け出す広告でさえ、何度も見ていたら具合が悪くなってしまうことに気づいた。
ジャンプ+などはとてもありがたい。
広告もないし、1週間に1話読ませていただけるので、毎日ある時間になったら「チャージ完了したな、読まなきゃ!」という焦燥感もない。
この間、「お金ないんだからアプリでなるべく無料で漫画を読むようにしよう」と思い立った。
「推しの子」は恋愛リアリティーショー編が終わったあたりから読めていなかったので、一気に読んだ。あの充実感はすごかった。
「よし、この調子で全ての作品を読破しちゃおう!」
と思ったのだが、
3話くらい読んで「あれ?面白くない・・・全部見るに値しない・・・」という作品がまあまああることに気がついた。
当たり前だが、どの作品もが「推しの子」レベルの面白さや作画の密度、完成度を持っているわけではないんだよなあとみょうに腑に落ちた。
寝つきが悪くなってしまうことを再確認したので、しばらくあの手の漫画アプリに触れるのはやめておこうと思うのだが、
広告を見たとはいえ無料で読ませていただいた素敵な作品たちに何かしら貢献したいので、このブログで面白かった漫画についても書いていこうかな。